心の筋トレ
週末の夕方にポカリと時間ができたらどうしますか?僕の場合は、大きな書店の最上階から、本を手に取り眺めながらブラブラ降りてくる、がとっても良質な過ごし方です。昼間にどんなにアクティブに動いても、できることなら週末はこれで締めくくりたい。幸いなことに、盛岡には町の規模に不釣り合いな大きな書店が、あちこちにあります。盛岡市は世帯あたりの1年間の本の購入数が何回も1位に輝くぐらい「活字の街」なのです。ちょっぴり内省的な盛岡の人が、凍えるような夜、暖かいミルクコーヒーを片手に本を眺める、なんだかピタリとする光景です。多くの盛岡人にとって、本とは、きっと離せない大切なものです。 いわてには、啄木さんや賢治さんのような、日本を代表する文学者を輩出する土壌があります。現代でも、岩手出身の作家が文芸賞、と言うニュースを頻繁に耳にします。風、気候、地形、ヒト、何がそうさせるのかは分かりませんが、100年を超えてもそうなのだから、何かがあるのでしょう。実際に同僚を見渡しても、盛岡の出身者にはロマンティックな気質の人が多い気がします。 [...]
馬とカモシカ
一昨年の秋は日本中が熱狂しました。ラグビーの街、釜石の鵜住居復興スタジアムも好ゲームでした。思い起こすと、大会前から徐々にムードが醸成されました。大泉洋さんが好演するドラマを契機に、興味をもった方が多かったのではないでしょうか。大手企業のサラリーマンが東京郊外の工場に左遷され、縁のないラグビー部のGMを兼務する中で低迷するチームを再建し、さらには自身の再起を図るストーリーでした。米津玄師さんが番組のために書き下ろした楽曲が、各回のエンディング場面の感動量を最高潮にしました。主人公が逆境と対峙する気持ちを上手に表現するテーマソングのタイトル、なぜだか「馬と鹿」です。この2種の動物に関する、驚くほど振り切れたエピソードが揃っていることから、いわてを紹介する本連載にいつか登場させたいと思ってきました。 いわては、古くから名馬の産地と知られ、馬や金を巡りヤマト朝廷の侵略を受けたとされます。信長が鉄砲隊を結成するまでは、騎馬の機動力こそ軍事の要だったはずなので理解できます。重要な交通手段でもあったので、現代の自動車工場にも該当します。既にアテルイ時代に馬牧場があったようですし、武士の時代には命を預ける馬には特別な値打ちがつき、山内一豊の妻の内助の功の話が有名ですね。そもそも領主・藩主となった南部家は鎌倉初頭に、後に武田騎馬隊で名を馳せる甲斐から移封してきました。育成に力を注いだ在来種の「南部馬」は、全国の強者の憧れの的だったそうですが、明治政府の方針で外来種との交配を進めたため純血種が絶滅し、かろうじて明治天皇の御料馬の模型で容姿を確認できます。何もこのような名馬に留まらず、農耕馬との密接な生活は、L字型の「南部曲り家」を見れば一目瞭然です。馬と一つ屋根の下、家族同様の生活です。西洋式競馬は国内3番目の早さで県南の水沢で開催され、「チャグチャグ馬コ」(鈴の音を響かせながら装飾した馬が14キロも長列で練り歩く(現在))の様な農耕馬の感謝祭が200年も続くわけです。県北や遠野には馬肉の生食文化もあります。1000年以上も、馬こそ地域の主力産業かつ、生活必需動物であったわけです。 [...]
ティータイム
バブル崩壊後のゴルフ場は、どこも経営がピンチで、自分が所属するコースも経営が変わりました。ところが、あまり知られてないようですが、2020年はゴルフ場の倒産数が過去最低だったそうです。様々な行動の制限を受け、出張などの仕事が減り、密にならない屋外で精一杯気晴らししたい、そんなゴルファーが増えているのでしょう。さらに最近、ゴルフのハーフセット・クラブがよく売れているそうです。これはきっと、はじめて挑戦をする人まで増えていることを示唆しているでしょう。 ゴルフはかつて、おやじ臭いイメージが強かったように思いますし、ゴルフ場もコンペの誘致に一生懸命でした。週末まで職場のメンバーと一緒、さらに飲み会まで、となれば、若者が敬遠するのもよく分かります。ところが、コロナ禍への対応でスループレイが増え、会員でなくてもネットでお一人様ゴルフの予約ができる。結果として、未曾有の災難に適応しながら、ゴルフ場の経営を難しくしてきた「慣習」が何だったのかを浮き彫りにし、起死回生の作戦をゴルフ業界全体が打っている、そんな昨今でしょう。 [...]
はらたいらさんに全部
ほとんどの時間をいわてで過ごすようになり、もうすぐ一年です。昨年の今頃は暢気にスペインに出張に出かけていたことを思うと、コロナは自分のライフスタイルを180度近く変えました。 雪量の多い今冬は、朝晩の運転で緊張の連続です。でも、ウインタースポーツに挑戦すれば、バラ色の冬です。今年の八幡平は雪質がとても安定し、バーンもよく締まっています。そこは安比や下倉といった極パウダーのウインターリゾートが広がる、スキーヤー垂涎の地なのです。かくいう僕も冬はもちろん、春のドラゴンアイから紅葉の松川渓谷に至るまで、一年を通じて八幡平の魅力に触れることができました。振り返ると、この時間はとても良質でした。このようなショートトリップだけでなく、田舎暮らしを求める人の移住先としても八幡平は人気が高く、前回紹介した雫石と甲乙つけがたい。何れも大自然に温泉、その上おいしい食材に恵まれ、北の贅沢な暮らしを約束します。魅了された県外の方々が移り住んでくることをとても理解できます。 [...]
虹の似合うまち
早朝に岩手山の麓に出かけると、雲の切れ目から覗く陽光が湿った空気に反射し、恐ろしいほど綺麗な虹が出ていることがあります。天気予報にもめげず早起きしてゴルフ場に向かう時のご褒美です。今年は、コロナの影響で週末も盛岡にいたので、周辺でたくさんの虹を見ました。車通勤で空を見る機会が増えたことや、心の余裕が影響していますが、これだけ頻繁に虹に出会う理由があるはずです。 虹ができるには、雨と斜めの日差しが必要でしょうから、朝夕に多いのは理解できます。盛岡界隈が多いと感じるのは、幼少期に外で遊んでいたのに、こんな頻繁に遭遇しなかったからです。生まれ育った東伊豆の海岸線は、極端に平地の狭い町で、東の水平線から朝日があたっても、西側に直ぐ山が迫るため光の屈折スペースがなく、西日も比較的早い時間に山に消えます。虹が出にくい地形だったと思います(朝の虹に関しては、見た記憶も無い)。それに対し盛岡周辺は、①それなりに広い平地が広がり、②東西は雨が降りやすい山に囲まれ、③太陽が低空飛行し(高緯度のため)斜めの日差しが注ぐ、という風に虹には良い条件が揃っている。夏の早朝、雫石の方角に大きな弧の虹が架かるのは、北西にそびえる岩手山(水滴が多い)に向かって、南東からの朝日が降り注ぎ、光の屈折を観察できる場所が広いからでしょう。 [...]
みちのく一人旅
「ここで一緒に死ねたら〜いいと♫」「たとえどんなに灯りが欲しく〜ても〜♪」こんな悲壮感は皆無ですが、高校2年の夏、東北を一人旅したことがあります。「上野発の夜行列車」に乗り、4人掛けの直角シートで3人組の女子大生に囲まれ、終着の青森駅まで揺られました。楽しそうな3人は話しかけてきます。根掘り葉掘り聞いてくるお姉さんたちで、「何処の大学ですか?」、歳より老けて見えたので、適当に「慶応です」。話が長くなってバレない様、早々に眠ろうとしたのですが、隣人は容赦なく自分の肩にもたれかかり爆睡し、16歳には朝までドキドキの深夜急行でした。「青森駅は雪の中」とは真逆、快晴で爽やかな青森駅で下車すると、3人組を含め乗客は青函連絡船に向かいます。函館かぁ、いいなあ、情緒たっぷりの光景を眺めながら、一人寂しく人の群れと反対に歩き、「金木」をめざし五所川原方面に乗り換えました。当時、通学のために毎日3つの電車を乗り換える必要から読書量が増え、太宰の小説を纏めて読んだのをきっかけに、生家の斜陽館まで足を伸ばすことに決めていました。るるぶもgoogleもない時代、津軽鉄道の金木駅を降りた途端自分の位置がわからず、通りすがりのおばあちゃんに道を尋ね絶句しました。何話しているか全くわからん・・・日本語には「種類」があることを初めて体験しました。青森、十和田湖、花輪、盛岡、松島、仙台、周遊券が使えるバスとローカル列車を乗り継ぎながら南下し、途中サウナに寝泊まりし、仙台駅で変なおやじに絡まれながらも、ちょっとだけ成長感をかみしめ夜行で帰途につきました。もちろん盛岡に足を踏み入れたのはこれが初めてで、レトロな建物と駅前のサウナだけ覚えています。多分、公会堂や岩手銀行だったと思います。まさか、将来住む街になるなんて、先のことはわからないものです。 旅の記憶は、生き方のリミッターに作用します。大学生になると、①中国、②エジプト・ギリシャ・トルコ放浪と、1ヶ月単位のダイハードな大旅行に発展しました。大怪我でもしない限り、旅の失敗は直ぐに成功体験に変容します。新婚旅行は2週間のアンダルシア、リュックを背負ってホテルも現地調達、なんでスーツケースではダメなの?と連れ合いは理解を示さないものの、唖然とするようなものに出会うチャンスの多い、むしろリッチな時間だったと今でも主張するようにしています。こんなことを繰り返すと海外出張の閾値も下がり、年10回程度なら気にならなくなります。動いたからこそ得られるものも多く、最新の医療技術を何処よりも早く導入できたのは、このフットワークに寄るところ大です。 [...]