「ここで一緒に死ねたら〜いいと♫」「たとえどんなに灯りが欲しく〜ても〜♪」こんな悲壮感は皆無ですが、高校2年の夏、東北を一人旅したことがあります。「上野発の夜行列車」に乗り、4人掛けの直角シートで3人組の女子大生に囲まれ、終着の青森駅まで揺られました。楽しそうな3人は話しかけてきます。根掘り葉掘り聞いてくるお姉さんたちで、「何処の大学ですか?」、歳より老けて見えたので、適当に「慶応です」。話が長くなってバレない様、早々に眠ろうとしたのですが、隣人は容赦なく自分の肩にもたれかかり爆睡し、16歳には朝までドキドキの深夜急行でした。「青森駅は雪の中」とは真逆、快晴で爽やかな青森駅で下車すると、3人組を含め乗客は青函連絡船に向かいます。函館かぁ、いいなあ、情緒たっぷりの光景を眺めながら、一人寂しく人の群れと反対に歩き、「金木」をめざし五所川原方面に乗り換えました。当時、通学のために毎日3つの電車を乗り換える必要から読書量が増え、太宰の小説を纏めて読んだのをきっかけに、生家の斜陽館まで足を伸ばすことに決めていました。るるぶもgoogleもない時代、津軽鉄道の金木駅を降りた途端自分の位置がわからず、通りすがりのおばあちゃんに道を尋ね絶句しました。何話しているか全くわからん・・・日本語には「種類」があることを初めて体験しました。青森、十和田湖、花輪、盛岡、松島、仙台、周遊券が使えるバスとローカル列車を乗り継ぎながら南下し、途中サウナに寝泊まりし、仙台駅で変なおやじに絡まれながらも、ちょっとだけ成長感をかみしめ夜行で帰途につきました。もちろん盛岡に足を踏み入れたのはこれが初めてで、レトロな建物と駅前のサウナだけ覚えています。多分、公会堂や岩手銀行だったと思います。まさか、将来住む街になるなんて、先のことはわからないものです。

旅の記憶は、生き方のリミッターに作用します。大学生になると、①中国、②エジプト・ギリシャ・トルコ放浪と、1ヶ月単位のダイハードな大旅行に発展しました。大怪我でもしない限り、旅の失敗は直ぐに成功体験に変容します。新婚旅行は2週間のアンダルシア、リュックを背負ってホテルも現地調達、なんでスーツケースではダメなの?と連れ合いは理解を示さないものの、唖然とするようなものに出会うチャンスの多い、むしろリッチな時間だったと今でも主張するようにしています。こんなことを繰り返すと海外出張の閾値も下がり、年10回程度なら気にならなくなります。動いたからこそ得られるものも多く、最新の医療技術を何処よりも早く導入できたのは、このフットワークに寄るところ大です。

9年前、いわてに来ることが決まり、慌てて都内のビジネススクールに通い「組織行動とリーダーシップ」を受講しました。意気投合した香港在住の先生は、授業のために隔週で東京まで飛んでくる、超精力的な大手企業のサラリーマンでした。「森野さん、忙しくて足が動かなくなったら、坂本龍馬を思い出して下さいね」。ちょうど大作「龍馬がゆく」を読破したあとだったので、先生が言わんとする意味が直ぐにわかりました。龍馬の移動距離は半端なく、最後の5年は2万キロ(地球半周)と言われていますね。車がない時代、自分の足と船を駆使し、ときにはワープするかのように縦横無尽に列島を動き回ったのです。なので「龍馬を思い出せ」、と自分に言い聞かせ積極的に動くことが幾度もありました。ところが、コロナが何もかも変えようとしています。自らが感染源になりうるので、移動を熟慮せざるを得なくなりました。さらに、盛岡にいても世界中の人と気軽にオンラインでやりとりができるようになりました。きっと、香港から授業のために日本に通う、なんて発想はなくなるに違いありません。これからの時代、どうやって自身の強みを生かしていくか、考えてしまいます。このままでは回遊魚の干物になってしまいそうです。みちのく一人旅に始まったこれまでの自身のスタイルは、きっと大きく変えざるを得ないと思いますが、長期単身の「みちのく一人暮らし」だけは、確実にこれからも続きます。ふうぅ。さて、今晩は何作るかな?