週末の夕方にポカリと時間ができたらどうしますか?僕の場合は、大きな書店の最上階から、本を手に取り眺めながらブラブラ降りてくる、がとっても良質な過ごし方です。昼間にどんなにアクティブに動いても、できることなら週末はこれで締めくくりたい。幸いなことに、盛岡には町の規模に不釣り合いな大きな書店が、あちこちにあります。盛岡市は世帯あたりの1年間の本の購入数が何回も1位に輝くぐらい「活字の街」なのです。ちょっぴり内省的な盛岡の人が、凍えるような夜、暖かいミルクコーヒーを片手に本を眺める、なんだかピタリとする光景です。多くの盛岡人にとって、本とは、きっと離せない大切なものです。

いわてには、啄木さんや賢治さんのような、日本を代表する文学者を輩出する土壌があります。現代でも、岩手出身の作家が文芸賞、と言うニュースを頻繁に耳にします。風、気候、地形、ヒト、何がそうさせるのかは分かりませんが、100年を超えてもそうなのだから、何かがあるのでしょう。実際に同僚を見渡しても、盛岡の出身者にはロマンティックな気質の人が多い気がします。

読書の街には、素敵な喫茶店がつきものです。盛岡にも古い町並みに同化するカフェがいくつもありますし、自家焙煎の豆だけを販売する店も目立ちます。読書習慣がコーヒー文化を育んできた、とも言えそうです。いわてに来ることが決まったとき、浪人時代を一緒の寮で過ごした友人二人からお祝いをもらいました。いい音を立てる縦長のミルでした。「これで豆を曳いてお客さんや、若い先生にコーヒーを」というメッセージ付きの、心暖まるプレゼントでした。あれから10年、ミルは今も健在ですが、たくさんガリガリできる時もあれば、さっぱり御無沙汰になる時もありました。ミルに手を伸ばす時は、どこか心に余裕がある。「お前が一息つけよ」、そういうつもりだったのかも知れません。

一般的に「読書の秋」と言いますが、涼しくなった夜長、澄んだ空気のもと色づき始めた木々を見ながらの読書は格別です。なので、10月末からの2週間が読書週間。ところが、いわての秋は様子が違います。収穫を終えても、凍てつく前にやっておくべき作業がたくさんある。遊び足りない人も、ここを逃すと外では雪遊びしかできなくなる。北国の秋は足早に通り過ぎ、とくに晩秋は何かと忙しい。本など読んでる場合じゃない。そこで、いわての読書週間は、寒すぎて外に出る気もしない2月の初旬に設定されています。今年の全国啓発ポスターは、「最後の頁を閉じた 違う私がいた」と何だか今風の格好いいコピーが目を惹きます。コロナ禍も重なり、たくさんの人が読書を通じそう感じるのではないでしょうか。対照的にいわてのコピーは「本読んで 心の筋トレ 始めよう」。どこまでも真面目で、直球です。

若い頃は、忙しくなると読書から遠のき、長編作品などありえませんでした。不思議なもので、困難なことが増えるに従い、本を手にする機会が増え、司馬さんの歴史小説に手を出してから、ついに文庫本10冊程度の長編が苦にならなくなりました。やっぱり、週末のとっておきの時間を費やし、上階の隅から書店を物色して来たのは、「何か」を求めていたからあって、それこそ「心の筋トレ」だったのでしょう。読書から獲得したレジリエンスも少なくないと思います。この標語を作った中学生、中々凄いものがあります。コロナで相対的に時間ができたはずなのに、全てが抑圧気味で、長いこと本を手に取る気分が湧きませんでした。でもワクチンを打ち、対処法も学び、次第に対面式の仕事が増え、そうなると自然と再び本を必要とするんです。まずは中途にしていた、43巻の超長編歴史小説を再開しました。とてもワクワクします。