コロナの影響で学会や会議の出張が無くなり、盛岡で過ごす時間が増えました。会食の激減は飲酒機会を減らすことになり、身体に悪くないのですが、密閉空間でのエクササイズを断念したこともあり、運動不足解消が課題となりました。もともとランニングは大嫌いで、地道に運動を続けるのも苦手です。そこで、知らないところを楽しめて、苦しくない「お散歩」が日課になりました。運動効果を高めるため、心拍数を上げる早歩きです。雨の降っていない夜、盛岡のヒストリカルエリアを、ものすごいスピードで闊歩する大柄の男(少し猫背)を見かけたら、それは僕かもしれません。。。
考えてみると、盛岡に来て9年も経つのに、病院、自宅、駅、現在の繁華街(大通・菜園)、郊外の大型店以外に足を伸ばしませんでした。会話に出てくる町名や店前も、限られた地域しかわからない。。。盛岡の人は、場所をシェアするのに「××橋」のわき、みたいな言い方をするのですが(盛岡の人の地理感覚はどうやら「橋」が中心みたいです)、そもそも橋の名前がわからない。それが一転、夜の「お散歩」を小一時間続けるには、それなりに遠くまで歩く必要があり、当然どこかの橋を渡ることになり、自分の盛岡の地図が大きく書き換えられていきました。そして、今まで空白だった地図に、素晴らしい場所がたくさんあることを再発見したのです。
お気に入りのコースはいくつもあります。中津川のリバーサイドに伸びる「ビクトリアロード」のお散歩は、素敵な時間を約束します。与の字橋を南に下り、市役所、城跡を右手に見ながら、下の橋を渡った新渡戸稲造さんの生誕地まで散策路(約800m)のことです。新渡戸さんの縁で盛岡市はカナダのビクトリア市と姉妹提携をし、10周年記念に整備し名付けたそうです。気持ち良く一汗かいたあとは、下の橋で折り返し、城の反対側を堅牢な石垣を見ながら帰るも良し、毘沙門橋を渡って対岸から戻っても良し、です。肴(さかな)町という365mのアーケード街の北に、老舗のおそば屋さんや醤油店が軒を連ねる通りが延び、このあたりも風情があります。道幅や蛇行の様子や雰囲気から数百年は続いているだろうと、想像力をかき立てます。通りの名前が見当たらず、たまたま映画を見たあとでメグ・ライアンが出て来そうだと、勝手に「メグロード」に。♪こんなとこにいるはずもないのに♪ ですが。。。
この「もり散歩」、距離感としては江戸時代の盛岡の街、すなわち広義の城内をちょうど歩ききるぐらいで、地名の位置関係や道路の雰囲気を知るうちに、古地図と照合してみたくなり、市の歴史文化館に行ってきました。盛岡城は北上川と中津川の合流部で両川に削られた丘の地形を活用し建設され、17世紀中頃に盛岡の街を拡張と、水害から守るために、北上川の流れを人の手でより西南に「切り替えた」、ことまでは知っていました。今の繁華街は旧北上川を埋めた地域に作られたので、周囲より明らかに低地に開け(「不来方の地名」というタイトルで少し触れました)、百貨店から石垣の方角に進み左手に、旧川の蛇行で大きくえぐれた段差を見上げることができます。今回もいくつも発見がありました。1610年前後、すなわち大坂夏の陣の少し前に、上の橋、中の橋、下の橋、が掛けられた、と「橋」のことが年表に掲示されています(どんだけ、橋を大事にしているのだろう)。盛岡の街は川のないところも、堀で囲み防御を施した城郭都市でした。昔の街の「縁」も同定できました。(堀だったので完全に埋められ面影がない)。そして、メグロードを始め散歩で印象に残るスペシャルな通りは、そのままの形で古地図にも描かれていました。
夜中に大きな足音が近づき、前を歩く女性が逃げるように早足になったりすると、「違うよ、大丈夫だよ!」と言いたくなります。オヤジ狩りにあわないように、なんとなくキョロキョロしながら歩いていますし、誤っても職質されるようなことがあってはらないので、見るからに節度に満ちた早足です。ただ実際に河原で見かけるのは、同じような格好の散歩人や、スケボの練習に励む善良そうな少年ばかりで、こんな治安の良さも盛岡の良いところです。
コロナが開け、盛岡にお客さんをお招きする様になったら、翌朝は早起きし散歩するようにお薦めします。きっと、盛岡の印象が大きく変わるはずです。