地方都市に住むのは盛岡、いにしえの不来方(こずかた)、が2度目です。
前回の岐阜の時もそうだけど、その町固有の文化や歴史に根ざした地名があって、あれこれ思い巡らすと中々面白い。盛岡は南部さんのお城を中心にそんな地名が広がります。現在使われているものでも、内丸、材木町、肴(さかな)町、鉈(なた)屋町、紺屋町、馬場町、八幡町、旧町名には、鍛冶町、紙町に穀町、居住者の生業を連想させます。
🔗盛岡町名由来記より

そんな中、これは!とうなる地名が固まるスーパー特区があります。まずは、「前九年」。どう考えても、昔勉強した前九年の役にちなんでいますよね。この町名の北に接して、「安倍舘」町(あべだて)があり、その先に「厨川」(くりやがわ)という地名が続きます。いい具合に北上川がうねっています。これって、前九年の役において、「厨川柵に本拠を置く安倍氏と源頼義の最終決戦地」ってことですね。高校で日本史を選択すれば、誰もがとてもよく知っている話しだと思います。今でも遺構が残り、この一帯は古代ロマンの詰まった特別なパワースポットです。

かつて上司の伊苅先生(東海大教授、現:心血管インターベンション治療学会理事長)を盛岡にお招きしたことがあります。無類の歴史好きで、講演会の前に少し時間を見つけて、厨川に寄ったそうです。講演会後はお寿司屋さんで、若い医局員と伊苅先生を楽しく囲みました。「ついに、厨川に行ってきた!」と興奮気味に話す姿に、地元出身の若い医局員達は「え??どうして??」とリアルに不思議がるのです。あんまり様子が変なので、ところで厨川って知ってる?と尋ねると、「XX学校のことですか?昔は校内暴力で荒れて、窓ガラスがバリバリで大変だったんですよ」って、一同の認識です。(*関係者の方御免なさい。一切の悪意はありません。今は県を代表するスポーツ強豪かつエリート校です。)伊苅先生が教育に興味があって、「伝説の校舎」をわざわざ見てきたんだ、と思っている風に見えました。その後、学生実習の度に県一番の進学校出身の学生を捕まえては、「厨川」って知ってる?と聞いても、歴史に関する話しが出てこないのです。ゆとり世代で学ばなくなった部分は仕方ないにしても、地元の大切な歴史がきちんと伝わっていないんだなあ、もったいない話しだなあと思いました。

盛岡の一番の目抜き通りは「大通り」と言いますが、狭すぎて車1台しか通れないのに大通りです。(ポジティブに歩道が広いと言うべきか? 🔗MORIOKA大通商店街)キョロキョロしながら歩くと、そこが周囲より急に一段と低く、おそらく川を埋め立たんだろうなあと気付きます。そして最大の繁華街「菜園」が続きます。もうお気づきの通り、昔はきっと河原の野菜畑だったんでしょう(ただし、御菜園、すなわち城主所有だったようです)。地名から昔を連想しブラモリノするだけで、たくさんの面白い発見がある、盛岡はそんな味わい深い街です。ちなみに、今の安倍首相、前述の安倍舘町にゆかりがあるらしいのですが、皆さんご存じですか?